昭和四十八年十二月十三日 朝の御理解
御理解 第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機 感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれ のお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
心で殺すとか、心が傷つけるとか、例えば心に憎い奴だなと、思うたらやはり態度に出んはずはない。やはり目つきから変わってくる。
そういう目つきに会う時に、こちらの心が傷つけられたり、こちらの心がやはり殺されたりする。それは本当にそうですね。よく思われてない人からじろっと睨まれてごらん、心は本当に傷ついたり、心が殺されたり致します。
ですから私共もその心を傷つけられたり、又は殺したりするようなことがあってはこれは信心させて頂く者、それは神の気感に叶わんとおっしゃるし、又、それを神が覧ておるとおっしゃるのですから、これが例えば、刃傷ざたですかね、刃物なり、刃物を持って傷つけられたり、殺したりするのは、それぞれのお仕置きにあうけれども心で傷つけたり殺したりするのは、神様が覧てござる。
結局、信心させて頂く者は、神様が御照覧の世界に生きることなんだ。神様が見通しだ。神様が覧ておいでだという世界に生きる生活を私は信心生活だと思うです。
ですから、神様が見ておって下さっておるのですから、いうなら、これを反対の事になるいうなら、七十六節に、人間は人を助ける事が出来ると、又は、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと。信心はこれだ。
人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心する。助けたい、助けたいと思うても、やはり力を持たなければ出来ませんが、その力を頂く為にも、私はここにどうでも心掛けねばならないこと、又は人を傷つけたり、又は心で殺したりするような事がないおかげを頂くためにも、やはりどうでもおかげを頂かねはならないことが、助けるにも殺すにもです、殺さんですむ、傷つけんですむ、又、反対にそれを傷ついておる者を癒す、死んでおる者を生かす程の、いうなら、働きをするおかげを頂くために、自分自身がやはり空しゅうなることだと思う。
※ ※ ※ ※ 私は椛目時代の創世の時に、死んだ気でいう修行をさせて頂いた事がある。いよいよ自分を空しゅうすることのための修行なんです。
死んだ気で励めば、力もつく、徳もつく、人も助かるようになるといったようなお知らせを頂いておった。
だから、死んだ気になるということ。まあ、大変難しいようですけれども、信心の稽古をさせて頂くのに、本当に何というですか、楽しく有難い、又は面白い
その時分に、草野の吉木に、石井さんという方が熱心に参って来ておりました。
そこの家で吉木地区の方達が謝恩祭を、それで冬の大変寒い日でしたが、まあ、皆さん真心こめてお祭りの準備が出来ておりました。私が大変うどんが好きですから、うどんを差し上げようというので、もう皆で話し合って素晴らしいうどんを、沢山具を入れて出して下さった。本当に親先生に喜んでもらおうと思うて、一生懸命出された。ところが、何と頂きだしたところが、「すめ」が入れてない。
うどん、そして上に具を入れて熱いすめを後でかけて出すはずだったところでしょうけれども、すめが掛け忘れてあった。
あの、うどんもですね、すめがないと、ちょいと食べにくいですよ。うどんにいくら具の入っとったっちゃ。だから、こげんところが面白い。
もう、ほとんど食べ終わったら、勝手の方から、あらしもたという声がしますもん今、親先生のはすめかけとらじゃったたいちゅうちから、ああ、親先生、あなたすめのかかっとらんうどん食べちから。いいえ、あんた私は死んだ気でこの頃は死んだ気での修行しよるとじゃから、そげんお位牌さんから、仏さまが物言いなさるはずはなかけん、もう物言わんで黙って頂きよったたいというような、もう、それこそ、笑い話のようでございますけど、面白いでしょうが。
もう、皆がたまがるとが面白か。そりゃ、ちっとは食べにくいけどね、もう一時が万事にです、そういう死んだ気でおるという事になればです、もう死んでおる、自分を空しゅうしとるですから、言うこともいらなければ、語ることもいらん。
只、有難いものが流れこんでくるだけ。面白い思いをさせて頂くだけ。皆さん、そういうやはり、修行も時々はなさってみてもよいですよ。
私、先日から北野の中村さんに話すように、眼が段々見えなくなって行く。そんなら眼をつぶいとかんのと、もう用事のある時だけ眼を開けて普通の時は、眼をつぶっときなさいというてお話をするようにね、それこそ盲人になった気で、何も見らない事になってくる。そして、かすかにでも必要な時に開けて見ると見える事が有難い。 その有難いのが必ずおかげを呼ぶのだと。有難いという心がほんに例えば中村せんでいうなら、七十八年間もの永い間、何不自由なく見せて頂いたということは本当に有難いことも何とも感じずにきたが、実際もういよいよ眼が見えんごとなって来るとそりゃ、かすかに見えておるという事だけでこんなに有難いものかという事がわかってくる。
その有難い心がおかげを呼ぶんだというわけです。それを合楽では黙って治めるといったような事を申します。
私はこの信心が、昨日は美登里会でしたが、美登里会でもこの話を中心に致しました。又、昨夜福岡から、皆さん帰って来られて、それで勝手の方でもう遅かったですけども、又、今の話を聞いて頂いた。これが今、合楽での最高の信心だと聞いて頂いた。それは何でもないことのようですけどもです、私はそういう精進をさしてもらう これは一口ここで言うとかねばいけないと。それは相手の事になる事であってもです、相手がああそうでしたね、すみませんと聞いてくれればまだよいけれども、それが、カツンと反対に響いてくる。一口言うときたという時には、人間感情がありますからね、それで必ず相手の心に響くのです。そすと、もう傷つけることになるです。 それよりもです、自分が、もう黙って治めるということ。私は昨日ある方に大変その自分の立場に困ってるという人のお届けを聞いた。
それでこの事をこの人が、私に先にこういうておってくれたら、問題じゃなかったんですけれども、それを言わなきゃならない事ですけれどもそれを言うてかった。
それで自分はもう、大変ばつの悪い思いをしたとこういうのである。それで一口相手の言うべきか言わないが良いか、言うたらよいかと随分迷うたらしい。
けどもやはり感情の方が少し出てきとるもんですから、私、自分にそれを言うてなかったことを言うたら、結局相手を責めることになり、詰めることになる。
たった一口だけだけど、いわゆる相手の心を傷つけたと。それで私は、その方に申しました。ばつの悪い思いをしたのはあなたでしょうもんと私が、まあばつの悪いことくらいなことは、ともかくとしてですね、なら痛い思いをするのはあなたでしょうもんというわけなんです。
あれが叩いたから痛い。あれがああいう事をしたから、自分はこういう損になったと。けれども痛い思いをしたのはあなたでしょうもん。損をしたのはあなたでしょうもん。ばつの悪い思いをしたのはあなたでしょうもん。
日頃信心、合楽でどういう事を頂いておるか、痛い思いをした時にあれが、ああしたから、痛い思いをせんならんというのはもう、合楽の信心じゃないです。
痛い思いをしたということは、自分が痛い思いをせなければならないものを持っておるということ。
自分がばつの悪い思いをせなけれはならない、いうならば、人に悪く思われるということは、その場合も同じこと、悪く思わなければどういうわけでこう言いわけをしてあんた、どういうわけで私をそんなよ悪く思うとのかと言うて正す事も、それは良いでしょう。そこで相手がはっきりわかってくれれば、けどそれよりも、もっと神様の働きを充分にする、神様が充分に働くことが出来れる生き方というのは、今 合楽で私が行っておる。それが今、合楽で最高の信心だというのは、黙って治めるという事です。
もう腹の立つばってん、ぐうぐう言うて堪えとくというのじゃなくてです、治めるという事です。
ぐうぐう言いよるとは治まっとらんとじゃ。だからそこに痛い思いをするのはあなた、ばつの悪い思いをするのはあなたでしょうもん。
息子でもなければ、嫁でもないでしょうが。ばつの悪い思いをするのはあなただから、何故こういうばつの悪い思いをせなければならんかということも、わからせてもらわにゃならんし、それが問題にならないくらいに自分がならせて頂くということが信心のそれです。だからそういう時にです、私が死んだ気で修行ばしとるときであったら、全然問題にならんのです。自分というものを空しゅうしきってとるときです、もう全然もう入れ物の中に、いろんなものが入ってませんから神様の思いが充分にこれに注がれるときです。
私共が人間の心を傷つけたり、それこそ人の心をいっぺんにもう「ブスッ」ともう突いて刺すように言うてすることは相手を殺すことになる。
それは成程、人間の世界の法でどうというてかかることはないだろうけれども、しかし心で殺すのは神が見ておると教えられるところが怖いじゃないか、天網開々【 】して洩らさずという程しの神様から見てござる。相手を心で傷つける。それだけのお仕置きを受けることを覚悟しなければならん。
だからそれとは反対に人の心の、心の傷ついておるのを癒してあげる。心がもう瀕死の状態にあるのを助けてあげられる、そういう心の状態を作っていくことが、七十四節にありますように、かわいいと思う心が神心じゃということになります。
反対にあん奴がと思うておったその人のために、そのいうならば、内容をよく見てみると、それこそかわいいものだという事になる。
例えば、子供がね、小さな子供がこう叩きかかってくるでしょう。あ痛、あ痛というて大人が逃げるでしょう。それでもこん奴ばっかりはと思わんでしょう。
その叩きかかってくることがかわいいでしょう。かわいいと思う心が神心、それなんです。同じ大人同志でも理屈は同じことです。叩きかかってくる自分の顔にかかってくるようなことをいう、それがです、自分の心が成長と見てまいりますと、それがかわいらしゅうなってくる。それがかわいいと思うよになってくる。
祈らなければおられない心が生まれてくる。それが神心なんです。七十四節にかわいいと思う心が神心じゃと。だか神心を造るということ、それを育てて行くということ。それが信心だがそういう心でなからなければ、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよという七十六節のところになってこないし、今日の例えば七十五節のところでもそうです。
そういう心が生まれてくるところに、相手の心を殺したり、傷つけたりすることの要らんですむ、なくてすむおかげが受けられるそれを今日私は死んだ気でということ 昔、戦時中に一旦戦死といったようなね、言葉が流行しました。いうならば、滅私奉報国ということです。
自分を滅して、国の為に報いる。今日一日はもう、死んだと思うて、一生懸命お国の為に働く。給料ももらわずに一生懸命お国の為に働くという言葉なんです。
ですから、たまにはね、自分がひとつ盲人になってみるという稽古もさしてもらうことは、楽しい、面白い、本当に今日一日死んだ気で、例えどういう事が起こっても死んだ気持ちでお位牌さんが物言いなさるはずはないいう気持ちで、そりゃもう無言の行という意味じゃないですよ。
それは有難い事やらは人としても良いけれどもです、ここ一口言うとかねばというような険のあるような言葉とかね、例えば責めるような、心の状態の時です、ははあここを死んだ気でという、そこから神様の働きを受けて、信心が楽しゅうなる稽古が楽しゅうなる、そういう心、そういう信心を繰り返して行くところから、私はかわいいと思う心が神心だというような心も段々頂けてくるようになると思う。
今日は十三日の金、それこそ今日は一日もう、それこそ滅死報教とでも申しましょうか、今日私、一日死んだつもりで、神様の願いに応え奉る一日でありたいといったような願いをたてたら、素晴らしい事になるでしょうね。
どうぞ。